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雄勝線こぼれ話

雄勝線こぼれ話

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地元の人から聞いた話を元に構成してみました
思い出話の断片を私の想像で補っているので
記録ではなく読み物としてお読みください

個人的感想も交えてお伝えいたします<(_ _)>


雄勝線のほぼ中心地点、羽後三輪駅のそばに三輪小学校があった(現在も、ある)

クラスには「ほけん係」とか「がくしゅう係」というような並びに「でん車係」というものがあったそうだ

電車通学の生徒(児童)は電車を時間まで校舎内で待っているのだが、電車一本遅れると、夕方かなり遅くなってしまう

そこで、「電車係」の登場!電車の発車時刻が近づいてきたら「時間ですよ〜」と待っている生徒に報れまわって、みんな揃って下校できるように・・・という係だったそうだ


前の勤め先で一緒だった柏原に住いの方から聞いたお話です(若干私の創作もあり)

羽後三輪駅があった所から北に1km程行くと、三輪柏原地区があります

この町内は町だか県が分譲した土地で、羽後町や湯沢市、十文字町など周辺の各地出身の方が集って住んでいます。分譲地ということもあり、最初は町内会館がなかったそうです

段々人が増えてくるとそういう訳にも行かなくなり、「町内会館」をどう建てようか?という事になったそうです

ただ、分譲地と言う性格上、住民の方々も、頑張って働いて土地を求め、家を建てたのだから、余裕がない・・・・・・うーん、なんとすればいいべ?

丁度その頃雄勝線が廃止になり、電車が何輌か残っていて、デハ、その電車を運んで、町内会館に使用しようという事になったそうです

(どういう手段を取って運んだかはまだ調べがついていません)

写真から見るに、最後の一番大きな電車デハ7号だと思われます

一番大きな電車と言っても、幅狭く細長く、その中に町内の人が集って、テーブルを囲んで、会議をしたり、時には飲み喰いをしたりするので、結構大変だったそうです

なにが大変かって、やはり、飲み喰いの時だそうです。細長いから配膳は難儀だし、酔ってくるとトイレに行きたくなります

「まで、俺、便所さ行ぐ!びゃっこ通してけれ」って、狭いので、テーブルも寄せれず、通すスペースもなく、人の脚を椅子にして横移動するような、「物凄い体勢」で(しかも、酔っぱらって、手にはコップを持っていたりするから・・・)最期は「這々の体」でトイレに辿りつくのだったそうです

現存はしていませんが、「子供の時、遊んだ記憶がある」という20代前半の知りあいがいます

柏原の人に、いつまであったか?と尋ねても「そう言えば知らねうぢ無ぐなったなァ」と・・・・・・

三輪柏原公園の町内会館電車

撮影・かまだ(HN・でんしゃ)さん

かまださんは秋田県内のバス・鉄道研究家で、精力的に各地を歩かれ、羽後交通や秋田市電の職員さんにも取材をされています。15年ほど前に雄勝線の廃線探索もなさっています。その際に撮影された写真です

昨年の羽後町民俗資料館での回顧展も、かまださんが前年に羽後町役場に入れた「来年、雄勝線廃止から30年ですが雄物川町の横荘線記念展みたいな企画は予定されていませんか?」という一本の電話がきっかけで実現なったそうです
かまださんに拍手です
(^-^)//""(^-^)//""パチパチ

この写真が目を引いたのか週刊アスキー2003年9月2日号の西都紀行(泉麻人さん執筆)に掲載いただきました。この写真を元にしたイラストも掲載されました


当時、西馬音内にある羽後高校から、杉宮方面(あぐりこ駅の方)が見えたそうだ

あぐりこ〜西馬音内間は距離としてはそんなに長くないのだけれど、冬になると吹雪で吹溜りが出来、運行が困難であったらしい

羽後高校には湯沢から雄勝電鉄に乗って通勤する先生方が居て、その電車が吹溜りで進めなくなり、先生が遅刻することがちょくちょくあったとか・・・

窓から見て、電車が雪にはまった様子がわかると生徒等は、一斉に・・・・・・

やった!バンザーイ!(「ザマミレ!(←一部)」)
ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿ヽ(^v^)丿ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿ヽ('v')丿

先生が電車で遅れると、朝の授業は自習時間になり、特に一時間目が「むつかしい」先生の曜日だと生徒は大喜びであったという

気持わかるなあ( ̄ー ̄)

ちなみに始発駅は西馬音内であり、湯沢からは折返しなので、その列車が朝一番の湯沢発西馬音内ゆきとなる


冬になると、キハ2・3のバケットには湯沢高校の学生がスキー板を載せて通学したということです・・・

今回はそれだけ?(?_?)・・・・・・それだけです(-_-)


雄勝線あぐりこ駅の名前は、「元稲田稲荷神社」通称「あぐりこ神社」の前に建てられた事に由来している
当時はひらがなの駅名というのは珍しかったそうだ

さて、この「あぐりこ」とはなにか?ということであるが、このお稲荷さんの神狐の名に由来し、その漢字は「安具理子(あぐりこ)」とされている

ちなみに御祭神は「豊受姫命(とようけひめのみこと)」だそうだ

(今回の文章はあぐりこ神社境内内の「元稲田神社由来碑」を参考にしました)


ポールと車掌さん
雄勝線の電車はポール式と云われる給電方法を取っていた

ポール式はパンタグラフのかわりに、先に車のついた「ポール=棹」を給電線に引掛けて、電気を受取るタイプだ
そのため、駅の前後のポイントなどY字形に電線が別れるところでは、給電ポールも切替える必要があったそうだ

ポールについた紐を車掌さんが下に引いて切替えるのだが、なかなか上手く行かず、何度も何度もやり直しすることもあったという

追記 「一瞬の闇」

駅の前後で給電ポールを引く(離す)際、当然、電気の供給が途切れるわけで

「発車してまもなく室内の明りが一瞬消えてしまうのが、雄勝鉄道に乗った際の思い出だなー(笑)」

という方もあった
確かに現代の電車からすると・・・・・・(^-^)

03.10.10


夏になると、子供たちは湯沢駅〜羽後山田駅附近の子は雄物川、西馬音内や三輪の子は大戸川で水浴びをしたという

鉄橋はちょうど良い飛び込み台になったらしい

また、西馬音内の子は線路(電車道)を歩いて大戸川と往来したという

この際も、又、「今の電車は○×△時のだからそろそろ帰るベ」と電車が時計代りになったかもしれない


当時、通学のために毎日雄勝鉄道に乗っていたある方は、現在、イベント関係の仕事をなさっている

羽後町のイベントやお祭で仕事をしていると「あのとうさん(おじさん)、どこかで見た人だなー。誰だっけや〜?」と、「どこか」で会った人を見かけるという

仕事(たとえばゆきとぴあ七曲など)をこなしながら「うーん、誰だっけ〜?」と暫く悩むそうだが、急に思いだすらしい・・・

「んだ!電車の車掌さんだで!」

話さずとも毎日のように会ったから、30年近く経っても覚えていたのだろうと思う


野良仕事をするときに、電車が時計代りだったという。
雄勝線は田園地帯を走っていく路線であり、当時は建物も少なく、結構遠くからでも電車の走る姿が見え、小さな鉄橋(堰=農業用水路等に掛けられた、おそらくこの手の物→*参照*)を渡る独特の音も聞えたそうだ。
電車が過ぎるのを見て「今ころは〇時の電車だ。そろそろタバコ休みにしようか」「もう少ししたらお昼にしよう」などという具合に、時刻の目安にしていたらしい。

当時は腕時計がまだ貴重品で防水機能も無かったろうから、当然だと思うけれど、トラクタに乗りながら携帯電話で連絡を取る必要のある現代からすれば、当時の悠長さがちょっとだけ羨ましい気もする
体力的には昔の百姓仕事はきつかったとおもうが、百姓仕事と言うのはいつの時代でも大変な物だとおもう


雄勝線の電車(客車?)の吊革はぐるぐる捻ると簡単に取れてしまったという

Sさんは学校帰りにそんないたずらをして、取れてしまった吊革を持ちかえり自宅にしばらく置いてたそうだ・・・一体何のために?


以前触れた、貨車のみかんの盗み食いの手口について・・・

みかんを盗み食いするといっても明ら様に盗んだ事がバレてしまっては意味がない。みかん箱のふたを開けたりするとすぐにバレてしまう。
そこで学生らが考えた方法・・・みかん箱の取っ手の穴に、手をすぼめて入れてやり、中のみかんを掴み、そのまま引き抜きゲッツ~_( ̄▽ ̄)v(笑)

これを幾人かで行えば結構な数になると思われる。しかもひとり一個とは限らないだろうから・・・・・・

当時、西馬音内・三輪方面で送られて来たみかんが意外に少なかった事があればきっとこのせいだろう
(-人-)・・・南無。

そのひと曰く「いやー、今だば、みかんなのあっても、わざわざ盗んでまで喰う事も無えども、やっぱり当時はそういう(お腹を空かせていた)時代だったんだべな〜〜〜〜
しかし、あのストーブも無い貨物車でハァ、戸、開げだまんま俺達も良ぐ乗ってだもんだー」

・・・それもそうだが、簡単に学生が貨車に乗り込める雄勝線の管理体制ってば・・・



暮れになると、年越の準備で大忙しである

三輪地区でも12月17日には「十七夜(ジュウシチヤ)」という年越の市がたったそうだ

三輪神社からあぐりこ神社まで、ずらりと露店が並び、年越の品や、その他、生活用品などさまざまな物が売り買いされたという

大変活気のある市で近郷の各地から大勢の人が集ったそうだ
ただし、電車に乗って来る人は余裕のある人で、多くの人は雪の中を歩いてきたという

年に一度の賑わいで子供たちはその時期をほんとうに楽しみにしていたそうだ。また、手先の器用な人は、「むしろ」や「*えづめ」など藁製品ををつくり、市で売って一寸した現金収入としたそうだ

また、「串子餅(くしこもち)」と云って、神社の杉の枝に平べったい餅をさした物も売られ、これは縁起物だったらしい

えづめ
「えづめ」のミニチュア
*えづめ→赤ん坊を入れておく籠のような物。親が目を離した時にはいはいなどをして怪我をしないように入れておくといった感じに使われていたのだろう・・・入れる際の赤ちゃんの股関節を傷めるので使われなくなったらしい・・・。味噌汁などの鍋を入れて冷めないようにするもの(ジャー代りか?)もあったという。こちらに字をあてれば「飯詰」か?
05.02.13


ユキ2による除雪
除雪車の運行風景 写真提供羽後町Oさん
冬季は積雪のため電車が止ることもしばしばだったそうだ
大雪で電車が止ると係の者が近くの家に「電車止ったがら、雪よへでけろー!!」と報廻って、雪掻き要員を確保したという
冬は現金収入のない百姓家にとって、この雪掻きは結構良いアルバイトになったそうだ

三輪に住むおじは親戚が鉄道工夫だった関係でその報廻る役を若い頃よくやったということだ

ちなみに除雪車中の暖房は薪或いは石炭のストーブと云われている。又、除雪車の後ろから押すのは開業当初からの電車デハ3号などが見られ、これらの窓を潰して煙突を出した様子は模型化されるなど人気があるようだ

廃止記念切符を撮影された方の手作りの「雄勝線アルバム」を見た事があるが
この電車の中で暖を取る職員の方の様子も写っていた


雄勝電鉄がなくなっても、人々の印象に残っているなぁと実感する事が度々ある

地元でも、アマチュアのミュージシャンの自作曲の中に雄勝線の電車の走る風景が唄われるときがある

河川の護岸工事と共に川遊びの子供たちもいなくなって仕舞う様子などを唄ったOさんの「雄物川」、Tさんの隣町まで電車に乗っていく楽しさを唄った、アップテンポのブルーズ風味の「哀愁の羽後交通ブルース」など・・・・・・

私の知らないところでも誰かが作曲し歌っているかもしれない・・・


当時を知る人は、客車ハフ11?は、他の客車より格が少し上で、戦中などは将校などに特に用意される傾向があったようだ・・・というお話

(当時の写真を見ると他の客車は使用されている様子を写した写真があるが、ハフ11に乗客が乗っている写真というのは余り見ないので、特別な扱いをされた物か?それとも、単に型が古いためあまり使用されなかったのか?少し、疑問が残る)

補足

私も最近(2003.5)知ったのだが、ハ12という客車もあったそうだ

他の方によると「他所から一(二?)等車を譲られたが、あまり、使えなかった。」というお話もあるので、軍人向けとはこの二車種(ハフ11・ハ12)のどちらかの事かもしれない

ハフ13・14も戦中の入線なので出征兵士を運ぶのが目的では無かったかと、想像している・・・果して?

デッキから手を振っている兵士を想像してしまう


終点の梺駅の北側に「石馬っこ(いしまっこ)」がある
神社の前に狛犬のように馬の石像が二頭向いあっており、その像の下をくぐると「はしか」にかからなくなるといわれている

私のよく通う湯沢市内のお店屋さんでも、若社長の幼い頃、母子で雄勝線の電車にのって、参拝に行ったという

〜続き〜

そのとき、お母さんは雄物川の鉄橋を渡る際、「『まんづ、ぐらぐらして、おっかねがった』ごど覚えている」というお話・・・・・・


各駅は当時も「○○駅」という名前ではあったが、地元の人は「停車場」と呼んでいたらしい。それだけ、早い時代の鉄道の名残があったという点で興味深い
(実際に羽後交通の資料でも「〇〇停車場」となっているようだ)


秋田の西モ内ホントに良いどご皆さん来てタンセ♪ 湯ン沢の駅から道程二里半、電車で三十分♪
8月は西馬音内・湯沢地域も夏祭りの季節だ
7日前後には湯沢七夕絵どうろう祭り、お盆には西馬音内盆踊り、下旬には湯沢愛宕神社の大名行列など目白押しである
雄勝線を利用して、西馬音内には湯沢地区の人が、湯沢には西馬音内を中心に羽後町から多くの人々がお祭りを見物に訪れたそうだ
その為、雄勝線では増結(発?)列車を用意して、見物客を運んだという
湯沢市内の人から「七夕なの大名行列なのってバョー〜西馬音内なのがら、いっぺ電車に乗って観に来るおだった〜」という思い出話を聞いた事があります
個人的には明治時代の客車(ハフ11など)や大正ロマンの薫りあふれる電車(デハ1型)で、西馬音内盆踊りや七夕絵どうろう祭りを観に行くなんて「なんてロマンチック(☆人☆)♪キラ〜ン☆彡」という感じです
西馬音内盆踊りも全国的に有名になってきているそうですが、そのお客さんにも利用して頂きたかったなぁと思います

ちなみに西馬音内駅のスタンプ?は盆踊りの物でした


雄勝線も出征兵士を送りだし、そして、復員兵、そして遺骨となって帰ってくる方を乗せてきたという
遺骨が運ばれてくると、英雄として、学校の体育館などで町(村)葬を行い霊を弔ったという

デッキから手を振って出征していくときは本人も家族も覚悟はしていても、まさかその覚悟が本当になることは信じたくなかったと思う

民俗資料館の回顧展でも年配の女性がホームの写真を見て「そーそー、ここまで出てきて旗を振って出征兵士を見送ったもんだったなー」と連れの人に話していたのが印象的であった




2002年に地元の町内(集落)会のサークルで私が「こどしで雄勝電鉄ねぐなってがらちょうど30年なのッスよ〜(今年で雄勝線無くなってから30年なんですよー)」と話をしたら
「もう、すったになったながぁ(もうそんなに経ったのかぁ〜)」と多くの方が少しだけ遠い目になった
しかし、その後、トイレで一緒になった方に「んだどもよー、乗ってでだばすんたにいいおではねがったど〜(だけどもよー、乗っていればそんなに良いものとは思わなかったぞ〜)(笑)」と教えてもらった

実際に私も雄勝線を利用したならば私も同様に感じたもしれない
(;^_^A
ガックシ

考えてみれば国鉄払下げの明治〜大正時代の客車や、東京のチンチン電車の余った車輛を買い入れたり、他所で使っていた気動車をを無理矢理電車に改造した電車がそんなにいい物ではないと実際に毎日利用する方はそう思うであろうと想像する
(;^_^A (;^_^A

車輛によっては冬も暖房が無かったというし・・・


雄勝線の電車について、多くの方は「兎に角、遅い電車だったなァ」とおっしゃる

具体的な例を挙げると

1.湯沢から西馬音内まで、新制高校の駅伝部員が練習で走ると、同じ頃に発車した電車より先に駅伝部員が着いてしまう

2.目的地が駅と駅の中間地点にあると、男子学生などは、手前の駅で一度下車をして、今度は発車した列車の後ろ(デッキ?)につかまっても平気なほどゆっくり走行だったらしい(目的地に近づくと手をはなして「本当の下車」ができたという

3.羽後山田駅から西馬音内方面にかけては登り勾配になっている
その為、湯沢行きの列車は比較的スムースだったが、西馬音内行きの列車(特にラッシュ時に貨物車なども牽いたりすると)はスピードが出せず、学生の自転車に追い越されて走ったそうだ(ということはもう歩く速さと変り無いのか??)

投稿篇にも電車の速度が非常にゆっくりであった事を示すエピソードを掲載しています

「雄勝線こぼれ話・投稿篇」へ

雄勝線独特の不文律があり、朝夕のラッシュ時など何輌か連結されている場合、先頭車輛は一般客、2輌目は女子学生、3輌目は男子学生とほぼ決っていた
当時は、「男女七歳にして席を同じうせず」という考えが残っていて、若い学生などは乗る車輛さえも別々だったらしい

その話を聞いた後に参考資料の「戦後を走った木造車1 若尾侑 大正出版」の雄勝線の頁を見ると、確かに男子学生・女子学生が綺麗に別れて各車輌に乗りこんでいる様子がうかがえる

(↑後にご指摘頂いて「当時、婦女子の教育にお金をかけられる余裕のある『親方衆のお嬢さん』だから、男子生徒より大事にされた」という考え方もありそうです)


←進行方向
一般客車輌
(画像はありません)
♪ ♪ ♪
女子学生車輌
♪ ♪ ♪
男子学生車輌
車掌室付貨車
画像は当局の指導により
掲載できません(嘘)

通勤通学時、客車の後ろに車掌室附の貨車が連結されていることがあったそうだ(ワフ1など)

車掌室があっても、車掌さんはその車輌に居る事は殆ど無かったそうだ(先頭の電車に乗っているため、後ろの客車には来れない)

その為、不良・・・もとい元気の良い男子学生の溜まり場となり、隠れて煙草を吸ったり、貨物のみかんを盗み喰いしたり、時には威勢の良い下級生(目付きが悪い(ガンツケ)・学帽の被り方が気に入らない等)に個人的指導を行ったりしたという(苦笑)
特にタバコ・個人的指導などは昭和一ケタ生まれの方から、雄勝線末期に利用した昭和30年前後生れの方まで同様の話が出たので、記録には残らない雄勝線の裏の歴史の一つであらう
(-。-) ボソッ

「んだば、その貨車ワフ1でなくてワル1だべ」と言ったのは誰だ!(苦笑)


Sさんは学校を卒業し、就職も決り上京するために三輪駅から、客車に乗り込んだ

発車の時刻になっても、なかなか「客」車は動かない。「おかしいなぁ?」と思い前を見ると、前の電車だけが進んでいる。 連結のミス?で、客車を置きざりにしていたのだった

旅立ちの日に・・・・・・

補足・・・羽後三輪駅は交換駅でもあり、客車・貨車の積替えがあったと思われる
電車の次に貨車、その次に客車という編成も見られ、そのバタバタした状態のまま電車を発車させてしまったのかもしれない


雄勝線の電車は古い車輛なので馬力が小さかった。通勤通学のラッシュ時(田舎いえど利用客は少なくなかった)などは、雄物川にかかる鉄橋を登りきれず、一旦平地までバックして助走をつけて上っていくこともしばしばだったという。

この話は冬期に電車が雪に阻まれたとき、吹溜りなどの雪を押すために、一旦バックをし雪の壁にぶち当たる際の事だったのかもしれない

どのようなぐわいかというと、加速を良くするため、吹溜りのずっと手前で2輌目からの貨車・客車を切離し、先頭の電車が単独で、バックしては前進、バックしては前進と吹溜りに体当りして、ぶっ飛ばしたところで、もう一度、貨・客車を連結しなおし、運行を再開・・・だったそうだ



トロ橋バス停 雄物川にかかっていた鉄橋の湯沢側の袂附近に「トロ橋(とろばし)」とよばれる集落がある。現在地名は「清水町(しみずちょう)(5〜6丁目附近)」であるが、今でも「トロ橋」で通用し、現羽後交通のバス停にも「トロ橋」「下トロ橋」がある。

この不思議な地名は、以前、対岸の山田の松岡地区にあった松岡鉱山で採掘された鉱石を運ぶために、松岡鉱山から深堀集落(後に山田駅の置かれた)を通り国鉄湯沢駅までトロッコ軌道が敷かれ、そのトロッコ用の橋が附近にかけられており「トロッコ橋」→「トロ橋」と呼ばれたのが由来とされている。

鉱山が後々まで盛んであれば、ひょっとして途中からもう一本「雄勝電鉄松岡鉱山線」などというものが伸びていたかもしれないと夢想している。

雄勝線の開通直前までトロッコ軌道があり、鉄道開通後は電車で山田駅から湯沢駅まで鉱石を運んだようだ。

その後、話を伺うと「大東亜戦争中くらいまではトロッコが山田駅に入ってきていた気がするなぁ?」という方もある

現在も(元)山田駅前から鉱山のあったと云う地域までほぼまっすぐ伸びる農道があるけれど「その附近を走っていた気がする」という方もある
トロッコ道に関してはきちんとした記録が少ないようでハッキリした事が判らない場合が多い

また、鉱山も何度も採掘をしたりやめたりした様なので、トロッコ軌道も掛けたり外したりを繰返したようだ


現在の文月橋(永久橋)の銘板 昭和20〜30年代は雄物川は洪水が多かったそうで、橋が流される事もしばしばだったらしい。
(雄勝線の鉄橋そばに平行に渡されていた文月(ふみつき)橋は昭和57年頃までは木製の橋であった。私も渡った記憶がある)
そうすると、山田側と湯沢側の行き来に小舟が出されたりしたという。
それでも、鉄橋は流されることも少なかったようで、急ぐ人や子供たちは鉄橋を渡って川を越えたという
また、現在でも文月橋をさして「トロ橋」という人もままある

↑写真は現在の文月橋の銘板「昭和56年11月完成」とある


λ=

上の話と重複するけれど、鉄橋の線路には板が敷かれていたので歩く事が出来た。その上、文月橋よりも湯沢駅(市内)寄りにかけられていたので、道を急ぐ人や子供は「近道だ」と鉄橋を平気で渡っていたと云う

本数の少ない路線であったので、そういう事が出来たのだけれど、当時小学生のTさんは運悪く電車の通る時に渡ってしまい、運転士に「コラ!何で橋わだらねで電車道歩ぐっけな(橋渡らないで線路を歩くのか)!?」と怒鳴られ「こっちの方がちけおん(近いもの)!」と口をきいたら余計に叱られたらしい。
電車に半分追かけられながら渡りきったそうだ。


釣りをする際に、おもり(錘)に鉛の玉を使うそうだが、その玉をペッタンコにつぶしてつり糸に巻きつける方法がある

そのピザ状の鉛を作るために子供達は雄勝線を利用したそうだ

どんな具合かというと……

1.電車の通過時刻を見計らい、「も少しでデンシャ来るど!」と云って、レールに鉛玉を置き列車が通り過ぎるのを待つ
2.雄勝線の電車が通り過ぎる
3.レールと車輪に挟まれて、ペッタンコの鉛が出来る
4.子供たちはそれをつり糸に巻きつける
5.ちょうど良い、錘の出来あがり
(^-^)//””パチパチパチパチ

教えてくださった方曰く…「電車にいたずらと言えばせいぜいそれくらいだよ♪」
力の小さい子供たちなりの工夫ですねぇ

俺、この話大好きです


雄勝線の某駅のそばに住いを構える、Sさんは子供の時、電車を止めた事があるらしい
子供の手で一抱えもある石を持ってきて「此れを線路に置いたらどうなるんだろう?」とレールに置石をしたそうだ
そして友人らと斥候兵よろしく、腹這いに隠れて電車を待ったという

「で、なんとなったのすぎゃ?(どうなったんですか?)」と尋ねると、Sさんはにこにこして「やっぱりデンシャ停まったけなぁ(笑)」

「電車が石を踏んで?」

Sさん「いや、ちゃんと先に停まって、車掌だがウンテンシュが降りできて寄せだなだ〜♪あんたにおっきな石だばさぎがらみえるべおん(あんなに大きな石なら遠くからでも見えただろう)」

「まだ〜Sさん置石などカラスみでんたごとしでぇ〜♪(また〜置石なんてカラスみたいなことして〜)」

Sさん「んだべった!真黒なっておもでで遊んでらおの、カラスもひとじだべっだ〜♪(その通りだろう!真黒になって外で遊んでたもの、カラスと同じようなものだったろー)ほっほう」

(秋田の人の感嘆詞は「ほっほう」だよな・・・)



私の実家を建てた大工の棟梁さんの御父さんもまた大工さんで、雄勝線の駅舎等の修繕を任されていたらしい。


三輪地区在住の友人に「家に雄勝線関係の写真はないか?」と協力をお願いしたところ、親御さんの33歳厄払同期会のアルバムを貸してくれた
このような同窓会などのアルバムの場合、大概は当時の校舎が表紙になると思うのだが、そのアルバムは表紙・裏表紙に雄勝線の電車(鳥海山をバックにした物・鉄橋を渡る列車など)が載っていたのが面白い

それほど、三輪地区のシンボルであったという事であろうが「電車に負けている校舎って一体・・・・・・」←アニメちびまる子ちゃんのキートン山田氏のナレーション風に読むべし

「学び舎より電車かよ!?」彡☆_( ̄□ ̄;)!!
さまぁ〜ず三村風でも一応可(ちょっと古いか・・・)




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