05.02.13
大雪で電車が止ると係の者が近くの家に「電車止ったがら、雪よへでけろー!!」と報廻って、雪掻き要員を確保したという 冬は現金収入のない百姓家にとって、この雪掻きは結構良いアルバイトになったそうだ 三輪に住むおじは親戚が鉄道工夫だった関係でその報廻る役を若い頃よくやったということだ
ちなみに除雪車中の暖房は薪或いは石炭のストーブと云われている。又、除雪車の後ろから押すのは開業当初からの電車デハ3号などが見られ、これらの窓を潰して煙突を出した様子は模型化されるなど人気があるようだ
廃止記念切符を撮影された方の手作りの「雄勝線アルバム」を見た事があるが 雄勝電鉄がなくなっても、人々の印象に残っているなぁと実感する事が度々ある 地元でも、アマチュアのミュージシャンの自作曲の中に雄勝線の電車の走る風景が唄われるときがある 河川の護岸工事と共に川遊びの子供たちもいなくなって仕舞う様子などを唄ったOさんの「雄物川」、Tさんの隣町まで電車に乗っていく楽しさを唄った、アップテンポのブルーズ風味の「哀愁の羽後交通ブルース」など・・・・・・ 私の知らないところでも誰かが作曲し歌っているかもしれない・・・ 当時を知る人は、客車ハフ11?は、他の客車より格が少し上で、戦中などは将校などに特に用意される傾向があったようだ・・・というお話
(当時の写真を見ると他の客車は使用されている様子を写した写真があるが、ハフ11に乗客が乗っている写真というのは余り見ないので、特別な扱いをされた物か?それとも、単に型が古いためあまり使用されなかったのか?少し、疑問が残る)
私も最近(2003.5)知ったのだが、ハ12という客車もあったそうだ
他の方によると「他所から一(二?)等車を譲られたが、あまり、使えなかった。」というお話もあるので、軍人向けとはこの二車種(ハフ11・ハ12)のどちらかの事かもしれない
ハフ13・14も戦中の入線なので出征兵士を運ぶのが目的では無かったかと、想像している・・・果して?
デッキから手を振っている兵士を想像してしまう
終点の梺駅の北側に「石馬っこ(いしまっこ)」がある 私のよく通う湯沢市内のお店屋さんでも、若社長の幼い頃、母子で雄勝線の電車にのって、参拝に行ったという 〜続き〜 そのとき、お母さんは雄物川の鉄橋を渡る際、「『まんづ、ぐらぐらして、おっかねがった』ごど覚えている」というお話・・・・・・
各駅は当時も「○○駅」という名前ではあったが、地元の人は「停車場」と呼んでいたらしい。それだけ、早い時代の鉄道の名残があったという点で興味深い
7日前後には湯沢七夕絵どうろう祭り、お盆には西馬音内盆踊り、下旬には湯沢愛宕神社の大名行列など目白押しである 雄勝線を利用して、西馬音内には湯沢地区の人が、湯沢には西馬音内を中心に羽後町から多くの人々がお祭りを見物に訪れたそうだ その為、雄勝線では増結(発?)列車を用意して、見物客を運んだという
湯沢市内の人から「七夕なの大名行列なのってバョー〜西馬音内なのがら、いっぺ電車に乗って観に来るおだった〜」という思い出話を聞いた事があります個人的には明治時代の客車(ハフ11など)や大正ロマンの薫りあふれる電車(デハ1型)で、西馬音内盆踊りや七夕絵どうろう祭りを観に行くなんて「なんてロマンチック (☆人☆)♪キラ〜ン☆彡」という感じです西馬音内盆踊りも全国的に有名になってきているそうですが、そのお客さんにも利用して頂きたかったなぁと思います ちなみに西馬音内駅のスタンプ?は盆踊りの物でした
雄勝線も出征兵士を送りだし、そして、復員兵、そして遺骨となって帰ってくる方を乗せてきたという
民俗資料館の回顧展でも年配の女性がホームの写真を見て「そーそー、ここまで出てきて旗を振って出征兵士を見送ったもんだったなー」と連れの人に話していたのが印象的であった
実際に私も雄勝線を利用したならば私も同様に感じたもしれない 車輛によっては冬も暖房が無かったというし・・・ 雄勝線の電車について、多くの方は「兎に角、遅い電車だったなァ」とおっしゃる 具体的な例を挙げると 1.湯沢から西馬音内まで、新制高校の駅伝部員が練習で走ると、同じ頃に発車した電車より先に駅伝部員が着いてしまう 2.目的地が駅と駅の中間地点にあると、男子学生などは、手前の駅で一度下車をして、今度は発車した列車の後ろ(デッキ?)につかまっても平気なほどゆっくり走行だったらしい(目的地に近づくと手をはなして「本当の下車」ができたという 3.羽後山田駅から西馬音内方面にかけては登り勾配になっている その為、湯沢行きの列車は比較的スムースだったが、西馬音内行きの列車(特にラッシュ時に貨物車なども牽いたりすると)はスピードが出せず、学生の自転車に追い越されて走ったそうだ(ということはもう歩く速さと変り無いのか??) 投稿篇にも電車の速度が非常にゆっくりであった事を示すエピソードを掲載しています
「雄勝線こぼれ話・投稿篇」へ
雄勝線独特の不文律があり、朝夕のラッシュ時など何輌か連結されている場合、先頭車輛は一般客、2輌目は女子学生、3輌目は男子学生とほぼ決っていた
(↑後にご指摘頂いて「当時、婦女子の教育にお金をかけられる余裕のある『親方衆のお嬢さん』だから、男子生徒より大事にされた」という考え方もありそうです)
通勤通学時、客車の後ろに車掌室附の貨車が連結されていることがあったそうだ(ワフ1など) 車掌室があっても、車掌さんはその車輌に居る事は殆ど無かったそうだ(先頭の電車に乗っているため、後ろの客車には来れない)
その為、不良・・・もとい元気の良い男子学生の溜まり場となり、隠れて煙草を吸ったり、貨物のみかんを盗み喰いしたり、時には威勢の良い下級生(目付きが悪い(ガンツケ)・学帽の被り方が気に入らない等)に個人的指導を行ったりしたという(苦笑)
「んだば、その貨車ワフ1でなくてワル1だべ」と言ったのは誰だ!(苦笑)
Sさんは学校を卒業し、就職も決り上京するために三輪駅から、客車に乗り込んだ 発車の時刻になっても、なかなか「客」車は動かない。「おかしいなぁ?」と思い前を見ると、前の電車だけが進んでいる。 連結のミス?で、客車を置きざりにしていたのだった 旅立ちの日に・・・・・・
補足・・・羽後三輪駅は交換駅でもあり、客車・貨車の積替えがあったと思われる
雄勝線の電車は古い車輛なので馬力が小さかった。通勤通学のラッシュ時(田舎いえど利用客は少なくなかった)などは、雄物川にかかる鉄橋を登りきれず、一旦平地までバックして助走をつけて上っていくこともしばしばだったという。
どのようなぐわいかというと、加速を良くするため、吹溜りのずっと手前で2輌目からの貨車・客車を切離し、先頭の電車が単独で、バックしては前進、バックしては前進と吹溜りに体当りして、ぶっ飛ばしたところで、もう一度、貨・客車を連結しなおし、運行を再開・・・だったそうだ
この不思議な地名は、以前、対岸の山田の松岡地区にあった松岡鉱山で採掘された鉱石を運ぶために、松岡鉱山から深堀集落(後に山田駅の置かれた)を通り国鉄湯沢駅までトロッコ軌道が敷かれ、そのトロッコ用の橋が附近にかけられており「トロッコ橋」→「トロ橋」と呼ばれたのが由来とされている。
その後、話を伺うと「大東亜戦争中くらいまではトロッコが山田駅に入ってきていた気がするなぁ?」という方もある
現在も(元)山田駅前から鉱山のあったと云う地域までほぼまっすぐ伸びる農道があるけれど「その附近を走っていた気がする」という方もある
また、鉱山も何度も採掘をしたりやめたりした様なので、トロッコ軌道も掛けたり外したりを繰返したようだ
↑写真は現在の文月橋の銘板「昭和56年11月完成」とある
上の話と重複するけれど、鉄橋の線路には板が敷かれていたので歩く事が出来た。その上、文月橋よりも湯沢駅(市内)寄りにかけられていたので、道を急ぐ人や子供は「近道だ」と鉄橋を平気で渡っていたと云う
本数の少ない路線であったので、そういう事が出来たのだけれど、当時小学生のTさんは運悪く電車の通る時に渡ってしまい、運転士に「コラ!何で橋わだらねで電車道歩ぐっけな(橋渡らないで線路を歩くのか)!?」と怒鳴られ「こっちの方がちけおん(近いもの)!」と口をきいたら余計に叱られたらしい。
釣りをする際に、おもり(錘)に鉛の玉を使うそうだが、その玉をペッタンコにつぶしてつり糸に巻きつける方法がある
雄勝線の某駅のそばに住いを構える、Sさんは子供の時、電車を止めた事があるらしい
Sさん「いや、ちゃんと先に停まって、車掌だがウンテンシュが降りできて寄せだなだ〜♪あんたにおっきな石だばさぎがらみえるべおん(あんなに大きな石なら遠くからでも見えただろう)」
Sさん「んだべった!真黒なっておもでで遊んでらおの、カラスもひとじだべっだ〜♪(その通りだろう!真黒になって外で遊んでたもの、カラスと同じようなものだったろー)ほっほう」 (秋田の人の感嘆詞は「ほっほう」だよな・・・)
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